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全能者のパラドクス〜アニメ「PSYCHO-PASS」 [タイトル:サ行]

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アニメーション「PSYCHO-PASS」は、虚淵玄脚本によるディストピア・ファンタジーである。




市民革命を経て王の独裁から逃れたかに見えたヨーロッパは、しかし恒久的な平和に至らず、むしろ大規模な戦乱の時代を迎える。

人々に幸せをもたらすための民主的な政治は、むしろ市民に閉塞感を与え、自らの愚かさを風刺的に表現する文学=ディストピア文学が多く生まれた時代である。

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  • 出版社/メーカー: 東宝
  • メディア: Blu-ray




wikipediaの解説では「ディストピアにもユートピアにも偏らない中間的な社会として描かれた」とあるが、これが風刺的表現であることを見落としているのだろう。

また物語は、設定として明らかに社会はユートピアを実現したように見えて、そのシステムからこぼれた人間を人間として扱えなくなってしまう理不尽を描いているわけだから、まるでトンチンカンな解説と言わざるを得ない。



これが風刺的表現であるのは、作品中で2112年の社会を管理しているシビュラシステムが、風刺作家ジョナサン・スウィフトの「ガリバー旅行記」を引用して「バルニバービの医者」と表現されていることから明らかだ。

ガリバーが空飛ぶ島ラピュータのあとに訪問するのがバルニバービ。



バルニバービは空想にとりつかれた人たちの国だ。

政党間の抗争を抑えるため、ある医者は 政党指導者の脳を半分ずつ入れ替える研究をしている。彼らの頭が「見事な了解点に達し、節度のある、調和のとれた思考が生じる」という。

この世界を監視し支配するために生まれてきたとうぬぼれている連中には何よりも望ましい方法だとスウィフトは書いている。

これが風刺でなくて何だというのだ。



この人間の愚かしさの傾向にカウンターとして設定されたのがアナーキズムである。

無政府主義という訳語から、暴力や破壊といった誤った印象を持たれやすいこの言葉に、物語は正確な定義を与えている。

元来、アナーキズムとは非人間的な支配の否定なのであり、人間性への信頼を背景に置いた政治体系を目指すものである。



あくまでも体制側の視点から描かれるこの物語に、こうした正しい意味でのアナーキズムを対置させたところが、虚淵玄脚本の妙味。

パスカルの「パンセ」を引用して、アナーキズムを擁護してみせる。

“正義は議論の種になる。力ははっきりしていて議論無用である。そのために、人は正義に力を与えることができなかった”



そして体制側からはオルテガを引用してこれに反論する。

“しかし私は、誰かがパスカルを引用したら用心すべきだということをかなり前に学んでいる。”

これだけではよくわからないので、長くなるが「大衆の反逆」(白水社版、桑名一博訳)からもう少し引用しておこう。



“全面的な政治運動、つまりすべての物事や、すべての人びとを政治の内に吸収してしまうことは、この本で述べている大衆の反逆という現象とまったく同じことである。もっか反逆している大衆は、宗教心や認識力をまったく喪失してしまった。大衆が自己の内面に持つことができるのは、ただ政治だけである。つまり、知識や宗教や知恵―要するに、その実質から人間の精神の中心を占めることのできる唯一のものにとって変わろうとするあの途方もない、熱狂的で、我を忘れた政治だけなのである。政治は人を孤独と親密さから解放する。それゆえ、全面的な政治運動の布教は、人を社会化するのに用いられる一つの技巧である”



つまり、大衆が社会を維持していくためには、それが完全なものでなくても「政治」を運用していくほかない、ということだ。



近代からこっち、我々はずっとこの二つの考え方の間を彷徨っている。

しかしいずれにしても統治のスタイルは基本的に官僚制的行政のシステムを採用しているといえるだろう。



マックス・ウェーバーは、理想的な官僚とは憤怒も不公平もなく、さらに憎しみも激情もなく、愛も熱狂もなくひたすら義務に従う人間だと言う。

そして官僚制的行政は知識によって大衆を支配する。専門的知識と実務知識を秘匿することで優越性を確保するのだと。

アナーキズムの側から見れば、そのシステムはまるで監獄のようなものなのだ。



ジェレミー・ベンサムの設計したパノプティコンは、最小の監視で最大の囚人を監視するシステムで、恒常的な監視下に置くことに依って、生産的労働習慣を身につけさせることが出来、それが社会のみならず囚人本人にとっても最大の福祉なのだと考えていたが、ミシェル・フーコーは「監獄の誕生 監視と処罰」という著作で、それを引用して管理社会比喩として用いた。




本作PSYCHO-PASSでは、主人公である監視官常守朱が、その葛藤に引き裂かれながらも、これまで長い時間をかけて人々が悪を憎み、正しい生き方を探し求めてきた想いの集積こそが「法」の精神であり、尊くあるべきその法を、人の都合で守るに値しない法律を作り運用していくことが貶めているのだ、と喝破するに至る。






知識の秘匿に、法の精神への冒涜。

現代の日本に生きる者としてまことに耳に痛い箴言ではないか。

そういえば宮﨑駿さんも「風刺は自国の政治家に対してするものだ」って言ってたね。





Part-2を視聴したので追記。



2においても物語は、引き続き「人を裁くこと」について、裁く者の無謬性について考察している。



センサーによって、潜在的な犯罪者を予め排除する社会システムでは、犯罪ではなく「人」そのものを裁くことになるため、その無謬性が問題となる。

ゆえにそのセンサーにひっかからない、特異体質=免罪体質の存在がその社会システムのアキレス腱となる。厳重に秘匿された上、発見された場合は、そのセンシングシステムの生体パーツとなるよう、国家運営システム「シビュラ」は設計されているのである。



シビュラシステムを運営する者は、特異体質としての免罪体質を人工的に作ろうとする。システムの作る「神」というわけだ。

そして「全能者のパラドクス」は構築されていく。



全能者である神には、誰にも持ちあげられない岩を創造できるか、という問いである。



そうして作られた岩は神自身にも持ち上げられないため、全能性を喪う。岩を作れなければもちろん全能ではない。



このパラドクスには解消法がある。

岩を作った後に、それを軽くする、というものだ。

サイコパス2の物語では、シビュラ側も、敵対するカムイ側もこの方法を使ってお互いの身を立てている。



時間差を作って見かけ上の全能性を確保するというこの方法は、神の全能性に対して適応するにはインチキ臭いが、人間社会での、例えば法の精神の無謬性を確保するくらいのことには充分用が足りるのである。



第二次大戦で、敗戦国となった日本に二度と戦争をできないように憲法に不戦条項を付けながら、共産党勢力の台頭で朝鮮戦争が起きた時、隣に立地する占領地である日本にさっさと警察予備隊(現在の自衛隊の前身)という実質的な軍隊を設置させるのもこの理屈だ。

物語ならば、パラドクスって面白いなあで済むが、現実社会でやられるとインチキ臭いだけだ。

そもそも人間は無謬ではない。

ごまかす必要はないのだ。


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